岩見沢のおいたち

11月13日、幌内媒田鉄道の幌内~手宮間の全線開通され、うっそうとした未開の地に文化の光がさし始めました。
移住士族取扱規則の公布により、札幌県勧業派出所が設置されました。

設村の告示により岩見澤村となり、戸長役場、郵便局も設けられ、開拓の事業も順調に進み、活気のある村となってきました。

山口県・鳥取県の他10県から士族277戸、1503人の集団移住により、初めて開拓の鍬は打ち下ろされました。

前年の岩見沢・滝川・忠別太(現旭川)間に続き、岩見沢~夕張間に夕張道路が開通しました。
岩見沢~輪西(室蘭)間の鉄道が開通し、岩見沢駅も元町から現在地に移転、新市街地が形成されるとともに、陸上の交通の要衛となりました。
空知支庁が設置されました。
一級町村制による岩見澤村となり、人口も12,518人、村勢は急速に伸展しました。

町制を施行。
本道では函館に次いで2番目と言われる町民念願の上水道が完成しました。
待望の市制を施行。
桂沢多目的ダムの完成によって、上水道拡張事業、都市計画実施も急速に進みました。
岩見沢~新篠津を結ぶ岩見沢大橋が完成すると石狩川北岸地帯の豊富な資源開発と生産物資の集散地の拠点となり、空知における行政・産業経済・教育文化の中核として確たる地位を築き上げてきました。
地名の由来

岩見沢の地名の由来については、いろいろな説がありますが、開拓使が幌内炭山に至る道路開削のとき、丁卒が畑一番地の幾春別川の川辺で浴(ゆあみ)したことが起源となり、定説となっています。
その根拠をなしているものは、現在岩見沢神社にある巖見澤紀(岩見沢市文化財)の碑文に書かれています。

巖見澤紀の碑文の解釈-定説
1878年(明治11年)に幌内煤田(幌内炭鉱)を開採のため、開拓使は札幌~幌内間の道路を開削にあたり、工事に従事する人のため、当市の北部、幾春別川の川辺に休憩所を設け、ここで浴(ゆあみ)して疲れを癒したと言われています。
当時の人びとにとって、この地は唯一の憩いの場所として、「浴澤(ゆあみさわ)」と称するようになり、これが転化して「岩見澤(いわみざわ)」と呼ばれるようになったと言われています。
諸説-アイヌ語説
川戸清人(明治18年移住者)談-昭和26年開拓功労者座談会での回想イワミはアイヌ語でカケス(鳥の名)、サワは多いの意で、カケスが多く棲んでいるところ。
しかし、平取町のアイヌ資料館の萓野茂館長は、「カケスをアイヌ語では確かに『エヤミ』または『パラケウ』という。しかし、道内に多いアイヌ語地名で鳥の名前をそのまま地名としているケースはなく、巖見澤のケースは何とも言えない」と話しています。
諸説-人名説
幌内道路の開削に関係した札幌の草分け、「高見沢権之丞」と室蘭~札幌間の国道工事に地方土方を提供した「岩見三治兵衛」という人物がおり、二人とも札幌に住んだ開拓使出入り請負人だとすれば、この二人の姓名をとったのでないかと考えられます。今のところ、両氏の名を見い出す史料は見つかっていません。
